吉田松陰の志
吉田松陰は山鹿流兵学師範である吉田家の養子となりますが、
養父が死去したため、叔父の玉木文之進より厳しい教育を受けます。
文之進の教育方針は一言で言うと、「侍であれ」というものでした。
夏の暑い日、漢文の素読をしていた松蔭は汗をかいた首筋を掻きました。
すると文之進は激怒して何度も松蔭を殴りつけました。
松蔭にとって学問は「公事」、首筋を掻くことは「私事」なのです。公事をおろそかに
して私事を優先するとは何事か、というわけです。
また、文之進は松蔭によくこのように言いました。
「(山鹿流兵学師範である)松蔭の勉強が一日遅れると、長州藩の軍備が一日
遅れることになる」 (司馬遼太郎の小説「世に棲む日々」より)
吉田松陰は安政の大獄のとき、聞かれもしない老中暗殺計画を話して処刑されます。
侍は隠し事をしてはならない、という信念があったためです。
松陰の日常生活の動作一つ一つに、また言動の端々に到るまで、志が感じられます。
とても堅苦しい生き方ですが、とても美しく思えます。